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人生終盤の選択死について

百貨店出身の駆け出し診断士madmaxです。

以下は私の個人的な見解です。

人生100年時代になり、『ライフシフト』という本でも、100歳まで生きることを前提とした人生設計が必要ということが書かれており、それが常識になりつつあります。

私も50歳を超え、中間地点を超えた状況です。

息子も来年20歳、父は88歳になり病院で寝たきり生活、母は80歳で社交的に暮らしつつ父と会えるのを楽しみに生きています。奥様は会社を悩み苦しみながら経営しています。

特に、父が入院してから頭の片隅に常にあるのは、自分が父の年齢になったとき、家族や社会に面倒を見てもらって生きること、息子君に墓の面倒や後始末をしてもらうことが自分の本意なのかということです。

寝たきりになって訳が分からないまま、息子君に金銭的・精神的・肉体的負担をかけ、社会にも医療費・介護費といった負担をかけることに意味があるのか、そこに尊厳はあるのかと思ったりします。

さらに死んだ後も、お墓の管理料も含め、その先の子孫(いればですが)にも迷惑を掛けることに意味があるのか?と思います。

お墓は法的に許されるなら、自分の代ですっきり処分し、自分の骨なども山林や海にまいてもらいたいです。

もちろん、私は父や母の面倒やお墓の管理をすることは全然迷惑とも思いませんし、父や母もそこは私に後は頼むと思っていると思います。

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ただ、私から息子君へということになると、抵抗があります。このままいけば、息子君たちの世代は多くの老人を少ない人数で支えることになります。彼らに余計な負担を掛けたくないというのが親としての私の今の気持ちです。

できることなら、自分が認知症や寝たきりになる前に、正の財産も負の財産も整理・処分し、息子君には正の財産だけを遺し、自分がかつて想像した人生をほぼ歩めたと満足したまま死を選びたいと思います。(あくまでも現時点では)

今、世界・社会では安楽死に対するハードルがものすごく高いですが、この先はもっと、ハードルが下がっていくような気がします。そうなれば、病気じゃなくても、自分の意志で死を選ぶことができるようになり、社会的な負担も軽減されるのではないかなと思います。

若い人は可能性が無限にあるのだから、その先を見ないまま死んではもったいないと思いますのでハードルは高いままにしておいてほしいですが、60歳を超えた人生後半ならもうほとんどのことは経験しているのだから、自分で安楽死を選べるような社会になってほしいなと個人的には思います。(診断士的にはその周辺ビジネスが生まれて一大市場を形成するように思います。それもまた悪いことではないと思います。)

 

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