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”太る”ということ


こんにちは、オレンジ色のユニフォームです。

 

今回は“太る”ということについて自分の考えをかいてみました。

若いころと今とでは状況が変わってきているのに、相変わらず、デブはNG、痩せていればOK、という基準があるように思います。

楽しく生きていくために“太る”ということについて少し深掘りをしてみました。

#今回もあくまでも個人の考えとしてお読みいただければと思います

 

はじめに

今回の記事は”太ることを肯定”する記事となっています。

しかし、痩せることを否定したり、批判したりするものではありません。

逆に、自己を律して、運動したり、食事に気を使ったりしている人には、ボクはリスペクトの気持ちを持っています。

 

太ることを回避していた3つの理由

1つは健康の維持です。

子どもを一人前にするまで一家の大黒柱は丈夫で元気でいる必要があると考えていました。

だから、自堕落な生活をしてブヨブヨ太り、結果、健康を害して、一家の家計を守られなくなる、というわけにはいきませんでした。

 

2つめは、太ることで肉体的にも精神的も苦痛を味わうことがあったからです。

端的に言うと、太るとスーツのズボンがきつくなって、一日中窮屈な思いをさせられてしまうことでした。

 

スーツのズボンがきつくなる

会社に行くのが嫌になる

自分はダメ人間だと自分を責める

精神的な苦痛となる

 

3つめは他者の目です。

 

太っている人=自分をコントロールできない人=意志薄弱者=信頼できない人=仕事を任せられない人=社会的信用を得られにくい人

 

太っている人=かっちょ悪い・みにくい=もてない

 

若いころは必要以上に他者の目を気にしていたように思います。

 

太らないことの努力

若いころは特段努力をしなくても太ることはありませんでした。

しかし、いつのころからか、努力をしないと太るようになってきました。

当初は、測るだけダイエットのグラフに毎日体重を書き込んでいったりする程度でした。

 

しかし、最近は、それだけでは効果がないため、糖質オフ生活に取り組んだこともありました。

その当時は、炭水化物の摂取をできるかぎり抑えるため、白飯やパンはほぼ食べず、もっぱらローソンで販売しているブランパンを主食としていました。

飲み会に行っても、ビールはなるべく避けて、ハイボールを飲むようにしていました。

 

ラーメン、牛丼、かつ丼、カツカレーは年1回程度しか口にしませんでした。

これらを食べるということは罪を犯すというイメージを持っていました。

 

“太らないことの努力”は “我慢する” と同義語でありました。

我慢を強いて太らないようにしていたのです。

 

時の経過とともに変わってきた状況

時間の経過とともに、ボクの周りの状況も変わってきました。

“太ることを回避していた3つの理由”についても変わってきました。

 

1つめの健康の維持は、2人の子どもが独り立ちしたことで、それほど気をつけなくてもよいようになりました。

 

2つめの太ることで肉体的にも精神的も苦痛を味わうは、次の2つの事柄から解放されました。

-会社の服装規定がカジュアル化となったこと

-穴なしベルトと紐で縛るズボンにしたこと

 

会社の服装規定がカジュアル化になったことで、スーツから解放されました。

カジュアル化当初はチノパン的なズボンを着用していました。しかし、ベルトがきつくなることで、従来と同じ苦痛を味わうようになりました。

 

この解決策として使用し始めたのが、穴なしベルト紐で縛るズボンです。これはサイキョーの組み合わせです。

# Yogibo(ヨギボー)と同じくらい人間をダメにしそうです

 

前の日にいくら食べすぎてもストレスなく、スポンとはいります。というかゴムのズボンのようです。

 

プライベートでもジーパンがきつくなると同様の苦痛を味わうので、ユニクロで売っていたジャージのようなゴムのズボンを履くようにしました。これもサイキョーです。いくら食べすぎてもストレスなくスポンとはいります。

#ゴムのズボンですからww

 

ゴムのズボンだからきつくならない

会社に行くのが嫌にならない

自分はダメ人間だと自分を責めない

精神的な苦痛を味わわない

 

3つめの他者の目は、60歳を超えると気にならなくなりました。

これから結婚をして家庭を持つ必要はありませんから、異性をひきつける必要もありません。

それよりも、太っていても、身なり正しく、清潔にしていることを心がけるようにしています。

 

太らないことからの解放

“太ることを回避していた3つの理由”の状況が変わってきたため、ボクは自分の行動を制限していた太らないことから解放をしてあげました。

 

「もう太ってもいいじゃない」

「それほど気にすることもないよ」

「これまでよく頑張ってきたよ」

 

という言葉が脳内を駆け巡りました。

 

我慢することが当たり前だったころは考えられないようなぜいたくな生活を送れるようになりました。

 

丸亀製麺の釜揚げうどんの得盛

熱々の日乃屋カレーのカツカレー

なか卯の親子丼の大盛

紅しょうをたんまりのせた吉野家の牛丼

かつ屋のかつ丼(竹)と豚汁(大)のゴールデンセット

喜多方ラーメン坂内のミニ炙りチャーシュー丼とラーメンセット

インドカレー屋のランチタイムのナン食べ放題コース

 

食べたいものを食べたいだけ、飲みたいものを飲みたいだけ飲めるというのはサイコーです

「お昼はなにを食べようか」と思えることはなんとも幸せなことだと思います

 

その結果、ボクの体重はリニアに増加してきました

 

痩せていることの価値偏重からの脱却

太っている=健康リスク高い、というのはボクも否定できません

ただ、過剰なほどの我慢は逆にストレスが溜まってしまい、幸せな時間をすごせないのではと思っています。

 

そもそもこの国は、痩せていることに対する価値が過剰になっているんじゃないでしょうか。

60歳超えて、子どもが一人前になったら、もう、食べたいものを我慢して暮らす生活から脱却してもいいんじゃないかと思います。

 

たかが数年死ぬ時期を延ばしたところで、どれほどの幸せにつながるのでしょうか。

どうせ死ぬときはやせ衰えてしまうのだから、食べられるときに、食べたいものを、食べたいだけ、食べる、というのは許してあげてもいんじゃないでしょうか。

 

ボクは子どものころ、そもそも十分に食べられない環境で育ちました。

食べたくても、食べられない、状況にありました。

それが、60歳を過ぎても、ようやく、食べられるときに、食べたいものを、食べたいだけ、食べられるようになったのに、それを我慢するというのはなんとももったいない気がします

 

おわりに

今回の記事で書いたように、「もう太ってもいいんじゃない」「好きなものを食べようよ」、というのは、今この時だけの気まぐれなのかもしれません。また気が向いたらダイエットをやるかもしれません。もしかしたら、病気をして食べられなくなるかもしれません。

 

残された時間を自分の考えで、有意義に生きていこうと思います。

 

(了)